晋の文公 重耳
十九年の流浪、驪姫の陰謀、報われぬ忠、そして寒食から清明へ ― 図解
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『大學』第55段に、舅犯が亡命中の公子重耳を戒めて言う。「亡人は以て寶と爲す無く、仁親を以て寶と爲す」――国を失った亡命者の宝は財貨ではなく、親を思う仁の情である、と。
この「亡人(亡命の身)」こそが、のちに春秋五覇の一人となる晋の文公・重耳である。なぜ彼は十九年もの間、国を追われ諸国をさまよったのか。その発端となった驪姫の陰謀と、放浪の足跡を、二つの図にまとめた。いずれも史書(『史記』晋世家・『春秋左氏伝』・『国語』)に基づく、独自に作図した解説図である。
図 一十九年・一万里の流浪ルート
狄 → 衛 → 斉 → 曹 → 宋 → 鄭 → 楚 → 秦、そして帰国。番号は立ち寄った順序を示す。
図一 重耳の流浪ルート概略(独自作図)
朱線=流浪の経路(①→⑨の順)
厚遇 ◎
冷遇 ×
本国・晋
- ①狄狄の君庇護
- 母の実家である北方の狄に亡命し、十二年を過ごす。妻・季隗を娶る。父・献公の死後、弟・夷吾が先に即位(恵公)し、兄・重耳を恐れて刺客を放つ。難を避けて出立。
- ②衛衛の文公冷遇
- 迎えられず、食にも窮する。五鹿の地で農夫に食を乞うと、返されたのは一塊の土。怒る重耳を、随臣・趙衰が「土=土地を得る吉兆」と諫めた。飢餓の道中に、介子推が自らの股の肉を割いて主君に供したとの伝承(割股奉君)も、この苦難のさなかに置かれる。
- ③斉斉の桓公厚遇
- 覇者・桓公に厚遇され、妻・斉姜を与えられる。安逸に流されかけた重耳を、家臣団と斉姜が酒に酔わせ、車に載せて連れ出し、旅を再開させた。志を取り戻す転機。
- ④曹曹の共公冷遇
- 共公は無礼で、重耳の駢脅(あばらが一枚板に見える体)を無遠慮にのぞき見た。ただし臣の釐負羈は密かに食と璧を贈って礼を尽くした。
- ⑤宋宋の襄公厚遇
- 泓水の戦いで傷を負っていた襄公が、重耳を国賓として遇し、馬を贈って厚くもてなした。
- ⑥鄭鄭の文公冷遇
- 鄭は重耳を軽んじて礼を欠いた。臣・叔詹は「賢公子を礼遇すべし」と諫めたが、聞き入れられなかった。
- ⑦楚楚の成王厚遇
- 成王が賓客の礼で迎える。「もし将来、戦場で相見えたら、いかに報いるか」と問われた重耳は、「三舎(九十里)退きましょう」と答えた。これが後の城濮の戦いで実行される「退避三舎」の約束である。
- ⑧秦秦の穆公支援
- 穆公は重耳を厚遇し、懐嬴ら五人の女性を与えて縁を結び、軍を出して帰国を後押しした。ここで十九年の流浪が終わりへ向かう。
- ⑨晋へ帰国即位して晋の文公帰国・即位
- 秦の援護で帰国し、六十二歳で即位。まもなく楚との城濮の戦いで約束どおり三舎を退いてみせ(大義名分を得る計略でもあった)、大勝。践土の会盟で周王から覇者と認められた。
『大學』第55段とのつながり:舅犯(=狐偃/狐咎犯)は、この放浪を最後まで共にした随臣であり、重耳の母方の伯父。父の訃報に帰国して家督を争おうとした重耳を「今は仁を宝とせよ」と諫めた言葉が、上図①の直後(狄での亡命期)の出来事にあたる。放浪を支えた家臣団の器量こそが、のちの覇業を準備した――『大學』が説く「賢臣を宝とする」政の、生きた実例である。
図 二驪姫の陰謀 ― 流浪の発端
なぜ重耳は国を追われたのか。父・献公の寵姫が仕組んだ後継争いの構図。
図二 驪姫の陰謀をめぐる人物相関(独自作図)
陰謀のあらまし
献公の晩年、驪戎から迎えた寵姫・驪姫は、自らの子・奚斉を後継に立てようと図った。まず三人の成人した公子――太子・申生、重耳、夷吾――を都から遠ざけ、それぞれ曲沃・蒲・屈へ配置させる。
次に申生を陥れる。亡母への祭肉を献公に供えさせ、その肉に毒を仕込んだ。地に注げば土が盛り上がり、犬に与えれば犬が死ぬ。罪を着せられた申生は、父の寵姫を告発して父を悲しませることを潔しとせず、弁明せずに自死した。
累が及ぶことを恐れた重耳と夷吾は、相次いで国外へ亡命した。これが、十九年の流浪(図一)の発端である。
図 三介之推 ― 報われぬ忠の物語
『史記』が称える「すぐれた側近」の、そのいちばん奥にいた一人。功を主張せず山へ消えた家臣の生涯を、五つの段階でたどる。
→ 宮城谷昌光『重耳』『介子推』図解(時間軸・物語・人物・名言)もあわせてご覧ください
図三 介之推の生涯(独自作図)
「すぐれた側近」の、その裏側
横山版『史記』の締めは、亡命を経てなお覇者となれた桓公と文公の共通点を「すぐれた側近がいたから」と結ぶ。狐偃(舅犯)や趙衰のように、諫め・進言し、時に主君を酔わせてでも旅へ引き戻した家臣たち――彼らこそ、報われ、栄達した側近の典型である。
介之推は、その同じ物語の裏側に立つ。割股という最大の献身をしながら、論功行賞の構造そのものから自ら降りてしまった側近であった。功を主張しないがゆえに賞から漏れ、漏れたことにも抗議せず、ただ山へ消える。「すぐれた側近が覇者をつくった」という明快な因果の、まさに外側に立つ人物である。
『大學』とのつながり:文公は最良の側近に恵まれた名君だが、その名君ですら、声を上げない功労者・介之推を取りこぼした。『大學』第58段「賢を見て挙ぐる能わず、挙げて先んずる能わざるは命(=上に立つ者の怠慢)なり」は、この一件をそのまま言い当てている。論功行賞の非対称、報われぬ忠、貪天之功――評価と徳治を考えるうえで、これほど鋭い題材はない。(放浪の道中でのこの割股伝承は、図一②「衛」の飢餓のくだりに置かれる。)
図 四寒食から清明へ ― 節日の変遷
介之推の伝承は「寒食(火を断つ日)」を生み、やがて「清明」へと受け継がれた。※寒食の起源には〈上古の改火説〉と〈介子推説〉の二系統があることに注意。
図四 寒食から清明への変遷(独自作図)
二つの起源と、節日の統合
寒食(火を断ち冷たい食で過ごす日)の起源には、実は二つの系統がある。一つは上古の「改火」――春に旧年の火を絶ち新しい火を迎える古俗(周礼・司烜氏)で、これが本来の淵源と考えられている。もう一つが介子推の焼死を悼む禁火の物語で、後漢以降にこの二つが結び付けられていった。
その後、唐代に寒食へ墓参(掃墓)が編入され、暦のうえで一〜二日しか離れていない清明と連続する。宋を経て寒食そのものは衰退し、冷食・掃墓・踏青といった習俗は清明節に吸収されて、今日に至る。介之推という一人の家臣の哀話が、二千年をこえて年中行事の形で生き続けている――図一〜図三の物語の、いわば「その後」である。
出典:司馬遷『史記』晋世家、『春秋左氏伝』(僖公二三年ほか)、『国語』晋語。人名・地名の表記や逸話の位置づけには史料により異同があり、本図は概説として作成した独自の図解です。図中の位置関係は模式的なもので、実際の地理・距離を厳密に表すものではありません。