書経 引用箇所抜粋

『大学』が引用する書経4篇の該当段落 (康誥・太甲・帝典=堯典・秦誓)

① 康誥(周書)―「克明徳」

周公が幼い康叔(衛の始祖)に、殷の遺民を治めるにあたっての心構えを訓した文の冒頭部分。

王若曰、孟侯、朕其弟、小子封。惟乃丕顯考文王、克明德慎罰、不敢侮鰥寡、庸庸、祗祗、威威、顯民、用肇造我區夏、越我一二邦以修我西土。惟時怙冒、聞于上帝、帝休、天乃大命文王。殪戎殷、誕受厥命越厥邦厥民。惟時敘、乃寡兄勖、肆汝小子封在茲東土。

かく孟侯もうこうちんおとうと小子封しょうしほうよ。なんじ丕顕ひけんなるこう文王ぶんおうとくあきらかにしてばつつつしみ、鰥寡かんかあなどらず、もちうべきをもちい、つつしむべきをつつしみ、おそるべきをおそれてたみあらわれ、もっわれ区夏くか肇造ちょうぞうし、われ一二邦いちにほうえて以てわれ西土せいどおさむ。これ怙冒こぼうし、上帝じょうていきここえ、ていよみしたまい、てんなんじおおいに文王ぶんおうめいじたまう。戎殷じゅういんたおし、おおいにめいほうたみとを受く。これじょし、なんじちの寡兄かけいつとむ。ゆえなんじ小子封しょうしほう、茲の東土とうどり。

王はこう仰せられた。「侯たちの筆頭よ、わが弟、若き封よ。そなたの偉大な父・文王は、よく徳を明らかにして刑罰を慎み、身寄りのない者を侮らず、用いるべき人を用い、慎むべきを慎み、恐れるべきを恐れて、その徳を民の前に現された。そうして我らの中原の地を築き、周辺の国々をまとめて西の地を治められた。この徳が天に届き、天は大いに文王へ天下を治めるよう命じられた。殷を滅ぼし、その天命と民とを受け継がれた。兄上(武王)もこれに励まれた。だからこそ、若い封よ、そなたは今この東の地を治めているのだ。」

「克明徳」は本篇冒頭の要句。武王の弟である文王の徳を讃え、康叔にもこれに倣うよう説く。『大学』は「克く徳を明らかにす」の三字だけを引き、明徳を明らかにすることの証としている。

② 康誥(周書)―「作新民」

康叔への訓戒の結び近く。民を教化し新たにすることの重要性を説く一節。

已、汝惟小子、乃服惟弘王應保殷民、亦惟助王宅天命、作新民。

んぬ、なんじれ小子、なんじつとむるはれ王をひろくして殷民いんみん応保おうほするにり、またれ王をたすけて天命てんめいやすんじ、あらたにするたみり。

もうよい。若いそなたの務めは、王を助けて広く殷の民を安んじ、また天命に安んじて、民を新しく生まれ変わらせることにある。

康叔の務めは、王を助けて殷の民を安んじ、彼らを新しく教化することにあると説く。『大学』はこの「作新民」を、民を新たにする(親民)ことの証として引く。

③ 康誥(周書)―「如保赤子」

刑罰の運用について、民を我が子のように慈しみ扱うべきことを説く一節。

王曰、嗚呼、封、有敘時、乃大明服、惟民其勑懋和。若有疾、惟民其畢棄咎。若保赤子、惟民其康乂。

わく、嗚呼ああほうよ、これじょらば、なんじおおいにつとあきらかにし、たみ其れちょくしてつとせん。やまいるがかくくせば、たみ其れことごととがてん。赤子せきしやすんずるがかくくせばたみ其れ康乂こうがいならん。

王はこう仰せられた。「ああ、封よ。秩序をもって刑罰の適用を明らかにすれば、民は自ら戒めて和らぐだろう。まるで自分が病にかかったかのように民の過ちを見れば、民は自ら過ちを捨てるだろう。わが子を守るように民を守れば、民はおのずと安らかに治まるだろう。」

民の過ちを我が子の病のように慈しみ深く扱えば、民は自ずから安んずるという趣旨。『大学』は「如保赤子」を、国を治めるにはまず家を斉えるべきことの証として引く(家を治める心で民を治めよ、の意)。

④ 康誥(周書)―「惟命不于常」

天命は一定不変ではなく、徳の有無によって去就することを説く一節。

王曰、嗚呼、肆汝小子封。惟命不于常、汝念哉。無我殄享、明乃服命、高乃聽、用康乂民。

わく、嗚呼ああゆえなんじ小子封しょうしほうよ。めいつねいてせずなんじおもえや。われをしてきょうたしむるかれ、なんじちのつとめいあきらかにし、なんじちのちょうたかくして、もったみ康乂こうがいにせよ。

王はこう仰せられた。「ああ、だから封よ。天命は一つの家系に定まったものではない。よく心せよ。私に与えられたこの恵みを絶やしてはならない。己の務めを明らかにし、よく耳を傾けて、民を安んじよ。」

天命は特定の家系に固定されたものではなく、徳を失えば移ろうという、周初の天命観を端的に示す句。『大学』は「惟命不于常」を、天命と徳の関係を説く証として引く。

⑤ 太甲(商書)―「顧諟天之明命」

名宰相伊尹が、放蕩により桐宮に幽閉され、悔い改めて帰った太甲王を戒めた文の一節。先王(湯王)の姿勢を範として示す。

先王顧諟天之明命、以承上下神祗、社稷宗廟、罔不祗肅。

先王せんおうてん明命めいめいかえりみて、以て上下じょうげ神祇しんぎ社稷しゃしょく宗廟そうびょうけ、祗肅しゅくせずということし。

先王(湯王)は、天から授かった輝かしい使命をつねに心に留め、それゆえ天地の神々や祖先の祭りに、敬虔でなかったことは一度もなかった。

先王湯王は常に天から賦与された明命を顧み省みることを怠らず、それゆえ神々や祖先の祭祀にも常に敬虔であったという。『大学』本文の表記は「大甲」。伊尹の言葉として、明徳を明らかにすることの証に引かれる。

⑥ 帝典(虞書・堯典)―「克明峻德」

堯典の冒頭。堯帝の徳を讃える序文にあたる部分。「帝典」は「堯典」の別称。

曰若稽古帝堯、曰放勳。欽明文思安安、允恭克讓、光被四表、格于上下。克明俊德、以親九族。九族既睦、平章百姓。百姓昭明、協和萬邦。黎民於變時雍。

曰若ここいにしえ帝堯ていぎょうかんがうるに、わく放勳ほうくんと。欽明文思きんめいぶんし安安あんあんまことうやうやしくゆずり、ひかり四表しひょうおおい、上下じょうげいたる。俊徳しゅんとくあきらかにして、以て九族きゅうぞくしたしむ。九族きゅうぞくすでむつまじく、百姓ひゃくせい平章へいしょうす。百姓ひゃくせい昭明しょうめいにして、萬邦ばんぽう協和きょうわす。黎民れいみんああへんじてこれやわらぐ。

いにしえの帝堯について考えるに、その名は放勲といった。慎み深く聡明で物事に通じ、心穏やかであった。まことに恭しく、よく人に譲り、その徳の輝きは四方の果てまで及び、天地に達した。よく自らの大いなる徳を明らかにして、まず身近な一族を親しませた。一族が睦み合うと、次に多くの官吏を正しく治め、官吏たちの働きが明らかになると、さらに多くの国々を協調させた。こうして民はみな移り変わり、和やかになった。

堯帝がまず自らの大徳を明らかにし、それを身近な九族から次第に天下万邦にまで及ぼしていく次第を描く、儒教の修身斉家治国平天下の理念の原型ともいえる一節。『大学』の表記では「峻」が「峻徳」となっている(俊=峻は通用字)。

⑦ 秦誓(周書)―人材登用の言

秦の穆公が鄭を討とうとして大敗し、自らの過ちを悔いて群臣に誓った文の一節。人材を包容する徳の大切さを説く、本篇随一の長文引用。

昧昧我思之、如有一介臣、斷斷猗無他技、其心休休焉、其如有容。人之有技、若己有之。人之彦聖、其心好之、不啻若自其口出。是能容之、以保我子孫黎民、亦職有利哉。人之有技、冒疾以惡之、人之彦聖而違之、俾不達、是不能容、以不能保我子孫黎民、亦曰殆哉。

昧昧まいまいとしてわれこれおもうに、一介いっかいしんりて、断断猗だんだんいとして他技たぎく、其のこころ休休焉きゅうきゅうえんとして、其れるるるがし。人のる、おのれるがかくく、人の彦聖げんせいなる、其のこころこれこのみ、ただに其のくちよりずるがごときのみならず、是れこれる。以てわれ子孫しそん黎民れいみんやすんずる、またまさるかな。人のる、冒疾ぼうしつして以てこれにくみ、人の彦聖げんせいなる、これたがいてたっせざらむ、是れるるわず。以てわれ子孫しそん黎民れいみんやすんずるわず、またあやうかな

ひそかに私が思うに、もし一人の実直な臣下がいて、他に格別な才能はなくとも、その心が寛大でよく人を受け入れるならば――人に才能があれば自分のことのように喜び、人が優れ賢明であれば、口先だけでなく心の底から慕う、そのような人物であれば、まさに我が子孫と民とを守るに足る、益ある者であろう。ところが、人に才能があるとそれを妬んで憎み、人が優れ賢明であるとこれを退けて世に出さぬような者であれば、そのような者は我が子孫と民とを守ることはできず、まことに危ういことだ。

才ある者を妬まず、我が事のように喜ぶ度量の広い臣下こそ子孫と民を守る、という人材登用論。逆に、才ある者を妬み退ける狭量な臣下は国を危うくすると説く。『大学』が引く文言は「若有一个臣、断断兮無他技…」とやや異なる字句(一介→一个、猗→兮など)だが、同一箇所を指す。長文引用のため、『大学』側の第56段全体がこの一節に対応する。

底本:中國哲學書電子化計劃(ctext.org)等に基づく通行の『尚書』本文。訓読は伝統的な読み方に拠ったが、読み誤りが残っている場合はお知らせいただければ随時修正します。