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項羽こうう劉邦りゅうほう 図解

全4節 原文・訓読くんどく・現代語訳・解説 ── 印綬いんじゅを渡せるか ──

この読本について

『大学』の明德めいとくと『老子ろうし』の玄德げんとくを並べて考える勉強会の、事例編であります。玄德は「あなたの玄德は何ですか」と直に問うても答えが出ません。自覚した途端に玄德でなくなるからです。そこで、他者を鏡といたします。項羽こうう劉邦りゅうほう——この二人ほど、玄德の三句「生じて有せず、為してたのまず、長じてさいせず」の有無を鮮やかに映す鏡はございません。本読本は『史記しき淮陰侯列伝わいいんこうれつでん項羽本紀こううほんぎ高祖本紀こうそほんぎ五帝本紀ごていほんぎから四節を引き、五枚の図解を添えました。人物は冠・甲・戟・笏といった礼制のしるしによる影絵で表し、容貌は描いておりません。本文中の色つきの文字は出典引用で、マウスを重ねる(スマートフォンではタップする)と説明が出ます。

色分けの凡例はんれい

『史記』『書経しょきょう『老子』『大学』『中庸ちゅうよう

あらすじ ── 秦末の十年

本読本の四節は、いずれも十年ほどのあいだに起きた出来事を背景にしております。固有名詞と時系列を先に頭に入れておかれると、原文の難しさは半分になります。以下は『史記しき』に拠る筋書きを、こちらの言葉で書き起こしたものであります。
始皇帝が没した翌年、陳勝ちんしょう呉広ごこうが兵を挙げ、「王侯将相寧んぞ種あらんや」——王や将軍の家柄など生まれつき決まっているものか——と叫んで天下は大乱となります。この波に乗って、江南では楚の名門の血を引く項梁・項羽こううが、沛の地では一介の亭長ていちょうにすぎなかった劉邦りゅうほうが、それぞれ立ちました。楚の懐王は「先に関中かんちゅう(秦の本拠)に入った者を王とする」と約します。
項羽は鉅鹿きょろくで釜を破り船を沈めて背水に臨み、秦の主力を撃破しました。ところがその隙に、劉邦のほうが先に都・咸陽かんようへ入ってしまう。劉邦は財宝に手をつけず、法三章ほうさんしょう(人を殺した者は死罪、人を傷つけた者と盗んだ者は罪に問う)のみを約して民心を得ます。怒った項羽が四十万の兵で迫り、開かれたのが鴻門こうもんの会范増はんぞうは幾度も合図を送って劉邦を討たせようとしましたが果たせず、劉邦は虎口を脱しました。
項羽は西楚せいそ覇王はおうと称して天下を分け、劉邦を辺境の漢王に封じます。しかし劉邦は韓信かんしんを大将軍に抜擢して関中を奪い返し、以後四年にわたる楚漢の争いが始まりました。劉邦は彭城ほうじょうで大敗するなど負け続けます。それでも、負けても人が離れなかった。ついに垓下がいかで項羽は囲まれ、四面から楚の歌が起こる。愛馬と虞美人ぐびじんに別れを告げ、烏江うこうのほとりで自刎じふんして果てました。三十一歳でありました。
劉邦が皇帝の位に即き、漢の高祖となります。本読本の第一節は、その即位の後の宴席で、劉邦自身が勝因を語った言葉であります。

読書案内 ── 物語で人物像を掴む

事前の読み物として、次の一作をお勧めしております。

司馬遼太郎しばりょうたろう項羽こうう劉邦りゅうほう新潮文庫・上中下三巻(合本の電子版もあります)
一九七七年から『小説新潮』に連載され、一九八〇年に新潮社より刊行された長篇であります。版元の紹介文も、この作品の主題を「人望とは何か」の一点に置いております。まさに本読本が玄德げんとくとして扱おうとしているものと、同じ問いであります。
三巻は重いという方は、上巻だけでもお読みいただければ十分です。始皇帝の死から鴻門こうもんの会の手前まで、つまり図解一の前半が物語として頭に入ります。そこまで来れば、第一部の原文はすらすらとお読みになれるはずです。

ひとつだけ、お断りを申し上げます。小説は史料に立った一つの解釈であって、史料そのものではありません。本読本が原文層に掲げているのは、あくまで『史記しき』の伝世本文であります。小説で人物像を掴み、原文で言葉そのものに当たる——この二本立てが、遠回りのようでいて確かな道かと存じます。なお著作権の関係上、本読本には小説の文章は一切引いておりません。

図解一 秦末の十年 ── 挙兵から垓下がいかまで

出来事 項羽の側 劉邦の側 前二〇九 陳勝・呉広が兵を挙げる ── 「王侯将相寧んぞ種あらんや」 前二〇九 項梁・項羽が会稽に挙兵/劉邦が沛に挙兵し、沛公と称す 前二〇八 項梁戦死。楚の懐王を立て「先に関中に入りし者を王とす」と約す 前二〇七 鉅鹿の戦い。釜を破り船を沈め、秦の主力を撃破する 前二〇六 劉邦が先に咸陽へ入る。財宝に手をつけず、法三章のみを約す。秦滅ぶ 前二〇六 鴻門の会。范増の謀ならず、劉邦は虎口を脱する 前二〇六 項羽、西楚の覇王と称す。劉邦を漢王に封ずる 前二〇六 劉邦、韓信を大将軍とし、関中を奪い返す ── 楚漢の争い始まる 前二〇五 彭城の大敗。以後、滎陽に対峙すること二年余。負けても人が離れず 前二〇三 鴻溝の和約。天下を二分する 前二〇二 垓下に囲まれ四面楚歌。虞美人に別れ、烏江に自刎す(三十一歳) 前二〇二 劉邦、皇帝の位に即く ── 漢の高祖

第一部の冒頭で、まずこの一枚をご覧に入れてください。陳勝ちんしょう呉広ごこう鴻門こうもんの会・四面楚歌しめんそかといった言葉は多くの方がご存じですが、順序と間隔まで掴んでおられる方は多くありません。十年に満たぬ短さであったことに、たいてい驚かれます。

図解二 三句の対比 ── 項羽こうう劉邦りゅうほう

項 羽 力は無双、情は厚し 劉 邦 才は凡、されど用ふるを得たり 兜・甲・戟 冕冠・袍・笏 生じて有せず 印を撫でて渡せず 関中を蕭何に、斉を韓信に 為して恃まず 天の我を亡ぼすなり 吾は如かず、と三たび 長じて宰せず 范増一人すら用ひず 任せて、手の内で撫でず

玄德げんとくの三句を縦軸に、二人を横に並べました。左が失われた姿、右が保たれた姿であります。第一部では、この三段のうち最上段の一段だけをお扱いになるのがよいかと存じます。

図解三 印けずれ敝るる ── 渡せぬ手の三段

印 刓(けづ)れ 敝(やぶ)るるも、忍びて予ふる能はず 授くべき印綬 角は立ち、稜は明らか 幾度も手の中で撫でる 渡すべきと知りつつ、渡せず 角は取れ、崩れる ついに、渡らず

情の厚さは、印綬いんじゅを渡す力とは別物であります。与えることはいくらでもできる人が、手放すことだけはできない。この落差が第一部の急所です。

図解四 用ふるの一事 ── 三傑さんけつ范増はんぞう

劉邦 ── 用ふ 項羽 ── 用ふる能はず 劉邦 張 良 帷帳に籌策を運らす 蕭 何 糧道を絶たず 韓 信 戦へば必ず勝つ 吾は如かず ── 三たび 項羽 范 増 ただ一人の謀臣 疑ひて、去らしむ 項羽は一范増あるも用ふる能はず

人材は数ではありません。一人しかいなくとも用いれば足り、七十余戦して敗を知らぬ強さがあっても、用いられなければ滅ぶ。「人がいない」と嘆く声はよく耳にいたしますが、問われているのは数ではないのでありましょう。

図解五 三句を三問に ── 自分への二問、他者への一問

『老子』の三句 経営の三問 生じて有せず 育てた人材を、手放せているか 為して恃まず 過去の成功体験を、今の判断の根拠にしていないか 長じて宰せず 渡した権限に、後から口を出していないか 自分への二問 その場で書き出す 一 掲げているもの——志、理念、社是(明德) 二 三句に照らして、己はどうか(玄德) 他者への一問 答えは後日まで開かない 後継者・部下に、この一問だけを尋ねる 「この方が居なくなったら、何が失われますか」

第二部で用います。その場では突き合わせないのが肝要で、他者への一問の答えは、後日まで開きません。自分が誇っていたものは誰も見ておらず、意識もしていなかった振舞いのほうが挙がってくる。そのズレそのものが教材となります。

図解六 しゅんの三年 ── 号令せざるに、都と成る

舜、号令せず。ただ、そこに居るのみ 歴山に耕す 人皆、畔を譲る 雷沢に漁す 人皆、居を譲る 河浜に陶す 器皆、苦窳ならず 一年 ── 聚を成す 二年 ── 邑を成す 三年 ── 都を成す 舜自身は、己の德を一度も自覚していない

第三部の締めに用います。舜は畔を譲れとも良い器を作れとも言っておりません。ただ耕し、漁り、器を焼いていただけです。玄德げんとくは本人の帳簿には載らず、周りの人の記憶のほうに記帳される——この一言をもって閉じるのがよろしいかと存じます。

主要語彙集

婦人之仁(ふじんのじん)
小さな情けは細やかだが、大事に臨んで決断できないこと。韓信かんしん項羽こううを評した語。情の厚さと度量とは別物であることを示す。
けず(いんかんぺい)
印章の角が撫でられて擦り減り、崩れること。渡すべき印綬いんじゅをいつまでも手放せぬさまをいう。
籌策ちゅうさく(ちゅうさく)
計略・作戦。籌は算木のことで、数えはかる意から転じた。
帷帳いちょう(いちょう)
本陣に張りめぐらせた幕。転じて作戦本部。「帷幄(いあく)」とも。
饋饟きしょう(きしょう)
軍隊への食糧の供給。兵站。
苦窳くゆ(くゆ)
器がもろく、ゆがんでいること。粗悪品。
聚・邑・都(しゅう・ゆう・と)
人の集まりの規模。聚は集落、邑は町、都は都邑。一年・二年・三年で段階を追って大きくなった。
范増はんぞう(はんぞう)
項羽の唯一の謀臣。項羽から「亜父(父に次ぐ人)」と呼ばれたが、陳平の離間の計により疑われ、去って途上で没した。
三傑さんけつ(さんけつ)
張良ちょうりょう(謀)・蕭何しょうか(内政)・韓信(軍事)。劉邦りゅうほうが「吾は如かず」と並べた三人。

第一節吾は如かず ── 三傑さんけつを用う史記しき高祖本紀こうそほんぎ(天下平定後の宴席にて)
原文
夫運籌策帷帳之中、決勝於千里之外、吾不如子房。鎭國家、撫百姓、給饋饟、不絶糧道、吾不如蕭何。連百萬之軍、戰必勝、攻必取、吾不如韓信。此三者、皆人傑也、吾能用之、此吾所以取天下也。項羽有一范增而不能用、此其所以爲我擒也。
籌策ちうさく帷帳ゐちやううちめぐらし、かち千里せんりそとけつするは、われ子房しばうかず。國家こくかしづめ、百姓ひやくせいし、饋饟きしやうきふし、糧道りやうだうたざるは、吾蕭何せうかに如かず。百萬ひやくまんぐんつらね、たたかへばかならち、むれば必ずるは、吾韓信かんしんに如かず。三者さんしやは、みな人傑じんけつなり。吾これもちふ。此れ吾の天下てんかりし所以ゆゑんなり。項羽かうういつ范增はんぞうるも用ふる能はず。此れの我にとりこにせられし所以なり。
現代語訳
本陣の幕の内で作戦を練り、千里の外の勝敗を決することにかけては、自分は子房しぼう張良ちょうりょう)に及ばない。国家を安んじ、民を慰撫し、兵糧を供給して補給路を絶やさぬことにかけては、蕭何しょうかに及ばない。百万の軍を率い、戦えば必ず勝ち、攻めれば必ず取ることにかけては、韓信かんしんに及ばない。この三人はみな傑物である。自分はただ、彼らを用いることができた。これが天下を取り得た理由である。項羽こううには范増はんぞうという者が一人いたのに、それすら用いることができなかった。これが私に捕らえられた理由である。

解説
「吾は如かず」を三度言える。ここに度量が出ます。しかも並べているのは謙遜ではなく、事実の冷静な認識であります。自分に何ができて何ができぬかを、これほど正確に測れる人は多くありません。
そして玄德げんとくの第三句「長じてさいせず」劉邦りゅうほう関中かんちゅうの留守を蕭何しょうかに任せきり、斉の地を韓信かんしんに与えました。任せた以上、手の内で撫でなかった。項羽が印綬いんじゅを撫でていたのと、ちょうど裏表であります。
末尾の一句が痛烈です。「項羽は范増はんぞう一人がいたのに、それすら用いることができなかった」。人材の数の問題ではないと言っているのです。一人しかいなくとも用いれば足り、七十余戦して負けを知らぬ強さがあっても、用いられなければ滅ぶ。人材が足りぬと嘆く声を、我々もよく耳にいたしますが、問われているのは数ではなく、宰せずにいられるかどうかなのでありましょう。

第二節印綬いんじゅを渡せるか史記しき淮陰侯列伝わいいんこうれつでん韓信かんしん劉邦りゅうほうに語る)
原文
項王見人恭敬慈愛、言語嘔嘔、人有疾病、涕泣分食飲。至使人有功當封爵者、印刓敝、忍不能予。此所謂婦人之仁也。
項王かうわうひとれば恭敬きようけい慈愛じあい言語げんご嘔嘔おうおうたり。人に疾病しつぺいれば、涕泣ているふして食飲しよくいんかつ。人をしてこう有りて封爵ほうしやくたる者らしむるにいたりては、いんけづやぶるるも、しのびてあたふるあたはず。所謂いはゆる婦人ふじんじんなり。
現代語訳
項王は人に接するときは恭しく慈愛に満ち、もの言いもやさしく穏やかである。病人がいれば涙を流して自分の食事を分け与える。ところが、功のあった者に爵位を授ける段になると、印章を手の中で撫でまわして角が擦り減り崩れてしまうほどになっても、こらえてどうしても渡すことができない。これがいわゆる「婦人の仁」というものだ。

解説
韓信が劉邦に対し、旧主・項羽こううを評した一節であります。本読本で最も重い一句であります。前節で劉邦が「吾は如かず」と三たび言えたのに対し、項羽はなぜそれができなかったのか——その答えがここにあります。
注目すべきは、韓信が項羽の情の薄さを責めていないことです。むしろ逆で、病人に涙を流して食を分けるほど情が厚い、と認めている。そのうえで、なお足りぬというのです。何が足りぬのか。「生じて有せず」——これが無い。
情は与えるものですから、厚い人はいくらでも与えられます。しかし印綬は手放すものであります。与えるのと手放すのとは、まるで別の力です。「印けずれ敝るる」——渡すべき印を、渡せぬまま何度も手の中で撫でる。角が取れて崩れるまで撫でる。その姿がありありと見えるようで、恐ろしい一句であります。
我々の日常に置き換えれば、印綬とは権限であり、情報であり、顧客であり、肩書であり、ときには仕事そのものでありましょう。あなたが今、手の中で撫でていて渡せずにいる印綬は何か。これならば、答えが出ます。

第三節天の我を亡ぼすなり史記しき項羽本紀こううほんぎ(東城にて)
原文
此天之亡我、非戰之罪也。
てんわれほろぼすにして、たたかひのつみあらざるなり。
現代語訳
これは天が我を滅ぼすのであって、戦さのしかたが悪かったのではない。

解説
垓下がいかに囲まれ、わずかな手勢とともに東城まで落ちのびた項羽こううが、最期に繰り返した言葉であります。『史記』は、項羽がこれを一度ならず言い、しかも配下に向かって「諸君に、天が我を亡ぼすのであって戦の罪ではないと知らしめよう」と告げて突撃した、と伝えます。力においては最後まで無双でありました。ただ、敗因を一度も自分の内に置かなかった
これが玄德げんとくの第二句「為してたのまず」の裏返しであります。功を恃む者は、その功が崩れたとき、崩れた理由を外に求めるほかない。恃むものが自分の内にしかないからです。
「天が我を亡ぼす」は、一見すると天命に従う潔い言葉に聞こえます。しかし『中庸ちゅうよう』の「上を怨みず、下を尤めず」と読み比べれば、その差は明らかでありましょう。君子は怨まぬのであって、天のせいにするのではありません。

第四節しゅんの三年 ── 号令せざる德史記しき五帝本紀ごていほんぎ
原文
舜耕歷山、歷山之人皆讓畔。漁雷澤、雷澤上人皆讓居。陶河濱、河濱器皆不苦窳。一年而所居成聚、二年成邑、三年成都。
しゆん歷山れきざんたがやせば、歷山のひとみなあぜゆづる。雷澤らいたくれふすれば、雷澤のほとりの人皆きよを讓る。河濱かひんたうすれば、河濱のうつは苦窳くゆならず。一年いちねんにしてところしゆうし、二年にねんにしていふを成し、三年さんねんにしてを成す。
現代語訳
しゅん歴山れきざんで耕作すると、歴山れきざんの人々はみな田の境の畔を譲り合った。雷沢らいたくで漁をすると、雷沢らいたくのほとりの人々はみな漁場を譲り合った。河のほとりで陶器を作ると、そこで作られる器はみな粗悪でいびつなものがなくなった。一年で舜の住むところは集落となり、二年で町となり、三年で都となった。

解説
勉強会の締めに置く一節であります。
舜は何も号令しておりません。畔を譲れとも、良い器を作れとも言っていない。ただ、そこで耕し、漁り、器を焼いていただけです。それだけで人が集まり、三年で都になった。これが玄德げんとく升りて聞こゆ」の中身であります。
ここで受講者の方々にお伝えしたいのは、舜自身は、自分の玄德を一度も自覚していないということです。畔を譲り合う人々の姿を見て「これは私の德の力だ」と思ったなら、その瞬間に玄德は消えます。玄德は本人の帳簿には載らない。載るのは、周りの人の記憶のほうです。
ですから「あなたの玄德は何ですか」に答えが出ないのは、当然であり、正しい反応であります。答えが出ないことをそのまま結論として、闇然あんぜんとして而も日々に章らかに」の一句で閉じるのがよろしいかと存じます。