色分けの凡例
『史記』『書経』『老子』『大学』『中庸』
あらすじ ── 秦末の十年
本読本の四節は、いずれも十年ほどのあいだに起きた出来事を背景にしております。固有名詞と時系列を先に頭に入れておかれると、原文の難しさは半分になります。以下は『史記』に拠る筋書きを、こちらの言葉で書き起こしたものであります。
始皇帝が没した翌年、陳勝・呉広が兵を挙げ、「王侯将相寧んぞ種あらんや」——王や将軍の家柄など生まれつき決まっているものか——と叫んで天下は大乱となります。この波に乗って、江南では楚の名門の血を引く項梁・項羽が、沛の地では一介の亭長にすぎなかった劉邦が、それぞれ立ちました。楚の懐王は「先に関中(秦の本拠)に入った者を王とする」と約します。
項羽は鉅鹿で釜を破り船を沈めて背水に臨み、秦の主力を撃破しました。ところがその隙に、劉邦のほうが先に都・咸陽へ入ってしまう。劉邦は財宝に手をつけず、法三章(人を殺した者は死罪、人を傷つけた者と盗んだ者は罪に問う)のみを約して民心を得ます。怒った項羽が四十万の兵で迫り、開かれたのが鴻門の会。范増は幾度も合図を送って劉邦を討たせようとしましたが果たせず、劉邦は虎口を脱しました。
項羽は西楚の覇王と称して天下を分け、劉邦を辺境の漢王に封じます。しかし劉邦は韓信を大将軍に抜擢して関中を奪い返し、以後四年にわたる楚漢の争いが始まりました。劉邦は彭城で大敗するなど負け続けます。それでも、負けても人が離れなかった。ついに垓下で項羽は囲まれ、四面から楚の歌が起こる。愛馬と虞美人に別れを告げ、烏江のほとりで自刎して果てました。三十一歳でありました。
劉邦が皇帝の位に即き、漢の高祖となります。本読本の第一節は、その即位の後の宴席で、劉邦自身が勝因を語った言葉であります。
読書案内 ── 物語で人物像を掴む
事前の読み物として、次の一作をお勧めしております。
- 司馬遼太郎『項羽と劉邦』新潮文庫・上中下三巻(合本の電子版もあります)
- 一九七七年から『小説新潮』に連載され、一九八〇年に新潮社より刊行された長篇であります。版元の紹介文も、この作品の主題を「人望とは何か」の一点に置いております。まさに本読本が玄德として扱おうとしているものと、同じ問いであります。
三巻は重いという方は、上巻だけでもお読みいただければ十分です。始皇帝の死から鴻門の会の手前まで、つまり図解一の前半が物語として頭に入ります。そこまで来れば、第一部の原文はすらすらとお読みになれるはずです。
図解一 秦末の十年 ── 挙兵から垓下まで
第一部の冒頭で、まずこの一枚をご覧に入れてください。陳勝呉広・鴻門の会・四面楚歌といった言葉は多くの方がご存じですが、順序と間隔まで掴んでおられる方は多くありません。十年に満たぬ短さであったことに、たいてい驚かれます。
図解二 三句の対比 ── 項羽と劉邦
玄德の三句を縦軸に、二人を横に並べました。左が失われた姿、右が保たれた姿であります。第一部では、この三段のうち最上段の一段だけをお扱いになるのがよいかと存じます。
図解三 印刓れ敝るる ── 渡せぬ手の三段
情の厚さは、印綬を渡す力とは別物であります。与えることはいくらでもできる人が、手放すことだけはできない。この落差が第一部の急所です。
図解四 用ふるの一事 ── 三傑と范増
人材は数ではありません。一人しかいなくとも用いれば足り、七十余戦して敗を知らぬ強さがあっても、用いられなければ滅ぶ。「人がいない」と嘆く声はよく耳にいたしますが、問われているのは数ではないのでありましょう。
図解五 三句を三問に ── 自分への二問、他者への一問
第二部で用います。その場では突き合わせないのが肝要で、他者への一問の答えは、後日まで開きません。自分が誇っていたものは誰も見ておらず、意識もしていなかった振舞いのほうが挙がってくる。そのズレそのものが教材となります。
図解六 舜の三年 ── 号令せざるに、都と成る
第三部の締めに用います。舜は畔を譲れとも良い器を作れとも言っておりません。ただ耕し、漁り、器を焼いていただけです。玄德は本人の帳簿には載らず、周りの人の記憶のほうに記帳される——この一言をもって閉じるのがよろしいかと存じます。
主要語彙集
- 婦人之仁(ふじんのじん)
- 小さな情けは細やかだが、大事に臨んで決断できないこと。韓信が項羽を評した語。情の厚さと度量とは別物であることを示す。
- 印刓敝(いんかんぺい)
- 印章の角が撫でられて擦り減り、崩れること。渡すべき印綬をいつまでも手放せぬさまをいう。
- 籌策(ちゅうさく)
- 計略・作戦。籌は算木のことで、数えはかる意から転じた。
- 帷帳(いちょう)
- 本陣に張りめぐらせた幕。転じて作戦本部。「帷幄(いあく)」とも。
- 饋饟(きしょう)
- 軍隊への食糧の供給。兵站。
- 苦窳(くゆ)
- 器がもろく、ゆがんでいること。粗悪品。
- 聚・邑・都(しゅう・ゆう・と)
- 人の集まりの規模。聚は集落、邑は町、都は都邑。一年・二年・三年で段階を追って大きくなった。
- 范増(はんぞう)
- 項羽の唯一の謀臣。項羽から「亜父(父に次ぐ人)」と呼ばれたが、陳平の離間の計により疑われ、去って途上で没した。
- 三傑(さんけつ)
- 張良(謀)・蕭何(内政)・韓信(軍事)。劉邦が「吾は如かず」と並べた三人。
第一節吾は如かず ── 三傑を用う『史記』高祖本紀(天下平定後の宴席にて)
原文
夫運籌策帷帳之中、決勝於千里之外、吾不如子房。鎭國家、撫百姓、給饋饟、不絶糧道、吾不如蕭何。連百萬之軍、戰必勝、攻必取、吾不如韓信。此三者、皆人傑也、吾能用之、此吾所以取天下也。項羽有一范增而不能用、此其所以爲我擒也。夫れ籌策を帷帳の中に運らし、勝を千里の外に決するは、吾子房に如かず。國家を鎭め、百姓を撫し、饋饟を給し、糧道を絶たざるは、吾蕭何に如かず。百萬の軍を連ね、戰へば必ず勝ち、攻むれば必ず取るは、吾韓信に如かず。此の三者は、皆人傑なり。吾能く之を用ふ。此れ吾の天下を取りし所以なり。項羽は一范增有るも用ふる能はず。此れ其の我に擒にせられし所以なり。
現代語訳
本陣の幕の内で作戦を練り、千里の外の勝敗を決することにかけては、自分は子房(張良)に及ばない。国家を安んじ、民を慰撫し、兵糧を供給して補給路を絶やさぬことにかけては、蕭何に及ばない。百万の軍を率い、戦えば必ず勝ち、攻めれば必ず取ることにかけては、韓信に及ばない。この三人はみな傑物である。自分はただ、彼らを用いることができた。これが天下を取り得た理由である。項羽には范増という者が一人いたのに、それすら用いることができなかった。これが私に捕らえられた理由である。
解説
「吾は如かず」を三度言える。ここに度量が出ます。しかも並べているのは謙遜ではなく、事実の冷静な認識であります。自分に何ができて何ができぬかを、これほど正確に測れる人は多くありません。
そして玄德の第三句「長じて宰せず」。劉邦は関中の留守を蕭何に任せきり、斉の地を韓信に与えました。任せた以上、手の内で撫でなかった。項羽が印綬を撫でていたのと、ちょうど裏表であります。
末尾の一句が痛烈です。「項羽は范増一人がいたのに、それすら用いることができなかった」。人材の数の問題ではないと言っているのです。一人しかいなくとも用いれば足り、七十余戦して負けを知らぬ強さがあっても、用いられなければ滅ぶ。人材が足りぬと嘆く声を、我々もよく耳にいたしますが、問われているのは数ではなく、宰せずにいられるかどうかなのでありましょう。
第二節印綬を渡せるか『史記』淮陰侯列伝(韓信が劉邦に語る)
原文
項王見人恭敬慈愛、言語嘔嘔、人有疾病、涕泣分食飲。至使人有功當封爵者、印刓敝、忍不能予。此所謂婦人之仁也。項王、人を見れば恭敬慈愛、言語嘔嘔たり。人に疾病有れば、涕泣して食飲を分かつ。人をして功有りて封爵に當たる者有らしむるに至りては、印刓れ敝るるも、忍びて予ふる能はず。此れ所謂婦人の仁なり。
現代語訳
項王は人に接するときは恭しく慈愛に満ち、もの言いもやさしく穏やかである。病人がいれば涙を流して自分の食事を分け与える。ところが、功のあった者に爵位を授ける段になると、印章を手の中で撫でまわして角が擦り減り崩れてしまうほどになっても、こらえてどうしても渡すことができない。これがいわゆる「婦人の仁」というものだ。
解説
韓信が劉邦に対し、旧主・項羽を評した一節であります。本読本で最も重い一句であります。前節で劉邦が「吾は如かず」と三たび言えたのに対し、項羽はなぜそれができなかったのか——その答えがここにあります。
注目すべきは、韓信が項羽の情の薄さを責めていないことです。むしろ逆で、病人に涙を流して食を分けるほど情が厚い、と認めている。そのうえで、なお足りぬというのです。何が足りぬのか。「生じて有せず」——これが無い。
情は与えるものですから、厚い人はいくらでも与えられます。しかし印綬は手放すものであります。与えるのと手放すのとは、まるで別の力です。「印刓れ敝るる」——渡すべき印を、渡せぬまま何度も手の中で撫でる。角が取れて崩れるまで撫でる。その姿がありありと見えるようで、恐ろしい一句であります。
我々の日常に置き換えれば、印綬とは権限であり、情報であり、顧客であり、肩書であり、ときには仕事そのものでありましょう。あなたが今、手の中で撫でていて渡せずにいる印綬は何か。これならば、答えが出ます。
第三節天の我を亡ぼすなり『史記』項羽本紀(東城にて)
原文
此天之亡我、非戰之罪也。此れ天の我を亡ぼすにして、戰ひの罪に非ざるなり。
現代語訳
これは天が我を滅ぼすのであって、戦さのしかたが悪かったのではない。
解説
垓下に囲まれ、わずかな手勢とともに東城まで落ちのびた項羽が、最期に繰り返した言葉であります。『史記』は、項羽がこれを一度ならず言い、しかも配下に向かって「諸君に、天が我を亡ぼすのであって戦の罪ではないと知らしめよう」と告げて突撃した、と伝えます。力においては最後まで無双でありました。ただ、敗因を一度も自分の内に置かなかった。
これが玄德の第二句「為して恃まず」の裏返しであります。功を恃む者は、その功が崩れたとき、崩れた理由を外に求めるほかない。恃むものが自分の内にしかないからです。
「天が我を亡ぼす」は、一見すると天命に従う潔い言葉に聞こえます。しかし『中庸』の「上を怨みず、下を尤めず」と読み比べれば、その差は明らかでありましょう。君子は怨まぬのであって、天のせいにするのではありません。
第四節舜の三年 ── 号令せざる德『史記』五帝本紀
原文
舜耕歷山、歷山之人皆讓畔。漁雷澤、雷澤上人皆讓居。陶河濱、河濱器皆不苦窳。一年而所居成聚、二年成邑、三年成都。舜、歷山に耕せば、歷山の人皆畔を讓る。雷澤に漁すれば、雷澤の上の人皆居を讓る。河濱に陶すれば、河濱の器皆苦窳ならず。一年にして居る所聚を成し、二年にして邑を成し、三年にして都を成す。
現代語訳
舜が歴山で耕作すると、歴山の人々はみな田の境の畔を譲り合った。雷沢で漁をすると、雷沢のほとりの人々はみな漁場を譲り合った。河のほとりで陶器を作ると、そこで作られる器はみな粗悪でいびつなものがなくなった。一年で舜の住むところは集落となり、二年で町となり、三年で都となった。
解説
勉強会の締めに置く一節であります。
舜は何も号令しておりません。畔を譲れとも、良い器を作れとも言っていない。ただ、そこで耕し、漁り、器を焼いていただけです。それだけで人が集まり、三年で都になった。これが「玄德升りて聞こゆ」の中身であります。
ここで受講者の方々にお伝えしたいのは、舜自身は、自分の玄德を一度も自覚していないということです。畔を譲り合う人々の姿を見て「これは私の德の力だ」と思ったなら、その瞬間に玄德は消えます。玄德は本人の帳簿には載らない。載るのは、周りの人の記憶のほうです。
ですから「あなたの玄德は何ですか」に答えが出ないのは、当然であり、正しい反応であります。答えが出ないことをそのまま結論として、「闇然として而も日々に章らかに」の一句で閉じるのがよろしいかと存じます。